カルチャーブレーン 遠藤一夫氏インタビュー

 カルチャーブレーンは、1980年代アーケードゲームの開発受託を行い、やがてコンシューマーゲームの自社開発・販売を行うようになったビデオゲーム創成期のベンチャー企業である。同社の専務取締役だった遠藤一夫氏は、営業、広告宣伝、人事などの業務を一手に引き受けられていた。遠藤氏のインタビューから当時のゲームベンチャー企業のビジネス活動をうかがい知ることができる。以下は、インタビューの一部を掲載したものである。

 

※遠藤氏のインタビューは、ご本人が末期がんの闘病中ということもあり、3月と4月に分けて行われたが、残念ながら2017年4月29日遠藤氏は闘病の末亡くなられた。インタビューでは、おもに1980年代から1990年代における貴重なビジネスに関わるお話を聞かせていただいた。「Theスーパーファミコン」編集長時代、遠藤氏には取材や広告掲載でお世話になっており、彼のゲーム業界人としての足跡を残せたのは幸いだった。


 インタビューの実現は、カルチャーブレーンのファンで個人的に遠藤氏のお世話をされていた池本氏、池本氏の知人で私がインタビューのコーディネートをお願いした柘植氏のご尽力によるものである。


ゲーム業界で働くことになったきっかけ

 

 もともと私とカルチャーブレーンの田中社長は小学校からの同級生なんです。私は実家が京成線のお花茶屋駅の近くで飲食店をやっていたんですが、田中社長は神田で昼は喫茶店、夜はパブをやっていたんですよ。たまたま私が親と折り合いが悪くなって、田中社長の店で働くようになったんです。あのころ結構繁盛してましたね。

 

 昼間にもっとお客さんに来てもらいたくて、当時流行っていた「ブロックくずし」(多くのゲーム会社が製作したアタリの「ブレイクアウト」をベースにしたアーケードゲーム)のテーブル筐体を2台ぐらい入れたんです。リースでした。そうしたらお客さんがかなりお金を使うので、田中社長が30台テーブル筐体を買ってうちでリースを始めようと考えたんです。

 

 自分の店で「ブロックくずし」を買って商売をするのではなく、リースを始めたところが発想がすごかった。自分の店だけではなく、ほかの喫茶店にリースで入れれば商売になるんじゃないかと思って。私がゲームに関わるようになったのは、それからですね。


インベーダーゲームのブーム

 

 「ブロックくずし」のあとが「インベーダーゲーム」(「スペースインベーダー」/1978年/タイトー)です。このゲームから神田駅前にゲームができる店を構えて、ゲームセンターの

ビジネスを始めたんです。
 
 「インベーダーゲーム」は、1台ワンボックスで1週間30万円ぐらい、月120万円ぐらい売り上げました。リースでは一番売り上げがよかったのは、浅草橋の喫茶店でした。100円玉がゲームセンターのコインみたいな感じでした(笑)。

 

 軽自動車で各店舗にリースの集金に行くんですが、100円玉が重くて車が傾きました。多いときは1店舗で月700~800万円ぐらい売り上げがあったと思います。お金は袋に入れて台車で運ばないと運べないんです。集金も大変でした。

 

 「インベーダーゲーム」のテーブル筐体は、当時1台37~38万円ぐらいでした。私たちの神田の店に来たお客さんから100万円で売ってくれと言われたこともありましたよ。ゲームのリース先は、神田、銀座、虎ノ門などビジネス街の喫茶店が多かったです。こうした店に1週間に1度、早ければ3日に一度集金に行ってました。

 

 「インベーダーゲーム」筐体の仕入れ先は大森電機でした。いわゆる「シャトルインベダー」(「スペースインベーダー」のコピー&改変版)です。最初はタイトーさんの筐体を扱いたくて交渉に行ったんです。

 

 でも、条件が厳しかったので、結局大森さんになりました。ゲーム基盤を扱った問屋は全国にありました。東北とか大阪の基盤問屋は結構大きかったですよ。問屋といってもファミコンの玩具流通とは違って、どちらかと言うとブローカーに近かったですね。
 


自社でゲーム開発と販売

 

 そのうち自分の会社でゲーム基板の制作も始めたんです。それまでゲームを作ったことがなかったんですが、ゲーム開発の外注先を探して作ったんですが、アーケードゲームは基板で売らなければならないので、ひとつの基板を作るにしても多くの部品を集めなければならなかったんですよ。

 

 私が部品の調達担当になりまして、各パーツをそれぞれ部品屋にオーダーするんです。部品を集めるのは大変でしたよ。「スペースインベーダー」が流行っていたので1個200円ぐらいの部品が2,500円になったり。コンパチの部品も集めましたね。そういう方面のことは何も知らなかったので勉強しながら仕事をしていました(笑)。

 

 富士通とか大手の会社は、我々みたいな会社には部品を売ってくれませんから、部品の調達はブロカーに頼まざるを得ないという状況でした。作った基盤は国内外で売りましたね。いい商売になりました(笑)。

 

 そのうち自分の会社でゲーム作りを始めたんですが、人材をどうやって集めていいかわからないので身内を集めて作り始めました。そのうちに学生も採用するようになりました。
 

 だいたい製品になっているゲームを真似て作るんですが、何とか自社ならではのゲームを作れるようになったのは日本ゲーム販売からカルチャーブレーンになったころだと思います。アーケードゲームの企画、製造、販売まで一貫してできるようになったのは。

 

 ニチブツ(日本物産)さんの伝手がうちの社長にあったんです。「モンスターゼロ」というゲームをたまたま作っていたので、それを持ち込んだんです。それを気に入ってもらって、ニチブツさんが海外で「モンスターゼロ」を販売しました。次に作ったのが「ダイナミックスキー」だったと思います。これもニチブツさん販売です。国内販売です。その次が「SFX」です。これもニチブツさんで販売しました。