回想のゲーム黄金時代(5)『Beep』編集部のこと

Beep』の編集長は、編集3部の部長豊田さんで、彼の下に副編集長と編集スタッフが56人いた。任天堂(ファミコン)、セガ(セガ・マーク)、PC、アーケードゲームなどだいたいデバイス別に担当者が決まっていた。

 

発売されるゲームのタイトル数から見れば、『スーパーマリオブラザーズ』が大ヒットした年の年末ぐらいからファミコンのタイトル数が増加しているので、ゲーム会社数も増えていた。担当者は大変だったと思う。

 

アーケードゲーム担当者は、カメラを持参してゲーム会社やゲームセンターに出向き撮影をしていた。

 

当時のソフトバンク出版事業部の編集者部は20代の人が多かった。その中で編集経験者は編集長などの役職の人たちで、編集者はだいたい編集未経験者、編集部のアルバイトやライターはほとんど専門学校や大学生。

 

1990年代になると、こうした環境の中で育った編集者がその後役職についていくのだが、あのころはライターも含めてPC雑誌やゲーム雑誌業界は、業界全体で人材育成の最中だった。ソフトバンクに限らずどこのPC雑誌、ゲーム雑誌も同じような状況だったと思う。

 

各編集部では、夜になると編集者や出入りのライターに近所の飲食店から出前をとっていた。そのせいで夕方以降は学生ライターが増えた。よく出前を頼んでいたのが千代田年金事務所の近くにあった芳珍飯店だ。

 

当時はPCやゲームに精通した人材をどうやって集めたらいいのかわからないような状況だったが、晩御飯につられて学生たちが集まっていた。全員がそうだったわけでもないが。その中から優秀な人材が各雑誌や業界を支えていくことになるのである。

 

 

編集者やライターの夕食代はすべて編集部払いだった。このシステムは、その後井関ビルの時代まではあったが、やがて経費節減のために消滅してしまった。